西部邁

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西部 邁(にしべ すすむ、1939年3月15日 - )は日本評論家思想家、雑誌『表現者』顧問、元東京大学教養学部教授

目次

[編集] 経歴

1939年3月、北海道山越郡の漁師町・長万部町に生まれる[1]。父は浄土真宗派の末寺の末男で農協職員。札幌郡厚別の信濃小学校、札幌市立柏中学校北海道札幌南高等学校に進学。高校卒業まではマルクスレーニンスターリン毛沢東も知らぬノンポリであった。1957年、東京大学の受験に落ち、その後一年間浪人生活を送る。

1958年4月、東京大学に入学、三鷹寮に入る。同年12月に結成された共産主義者同盟(ブント)に加盟する。在学中の1959年から教養学部で自治会委員長を務める。同委員長の選挙の際、西部はブントのメンバーたちとともに投票用紙を偽造してすり替え、共産党員の候補を落選させる[2]。また全学連の中央執行委員も務め、60年安保闘争に参加する。

1961年3月、左翼過激派と訣別する。1964年3月、東京大学経済学部卒業。このころブントの活動家であった青木昌彦の勧めで東京大学大学院に進み、経済学を専攻する。指導教官は嘉治元郎。1971年3月、東京大学大学院経済学研究科理論経済学専攻修士課程修了。1972年、連合赤軍による群馬県榛名山での集団リンチ殺人事件の報道を目にして、そのときまで多少とも左翼に共感していたことへの道徳的反省をせざるをえなくなる。横浜国立大学経済学部助教授、次いで東京大学教養学部助教授に就任する。経済学をはじめとする社会科学の細分化を一貫して批判する。1975年出版の処女作『ソシオ・エコノミックス』では社会学などの方法論を導入して旧来の経済学を批判する。経済行為の象徴的意味の解釈を志向する社会経済学の構築をめざし注目される。その後渡米しカリフォルニア大学バークレー校に在籍。引き続き渡英しケンブリッジ大学に在籍。『蜃気楼の中へ』という英米滞在記を発表した。帰国後80年代から大衆社会批判を主軸とした保守論客として活躍をはじめ、各方面で発言を続ける。高度大衆社会・アメリカニズム批判と西欧流保守思想の擁護とを基軸にした評論活動を活発に行う。みずからも受賞したサントリー学芸賞の選考委員を長く委嘱される。1986年、東京大学教養学部教授(社会経済学専攻)に就任する。

1988年中沢新一東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所助手)を東京大学教養学部助教授に推薦。委員会は通ったが教授会の採決のとき一部の教官たちの妨害により否決される。同年3月、西部はこれに抗議して東京大学を辞任する(東大駒場騒動)。その後は評論活動を続けるとともに鈴鹿国際大学客員教授、秀明大学教授・学頭を歴任。新しい歴史教科書をつくる会に参加し理事の任を引き受けたものの、当初から会の運動とは一定の距離を置いており理事会などへは出席しなかった。西尾幹二台湾金美齢を批判したことを巡って西尾との間で論争に発展した。台湾独立派の金美齢は「つくる会」に協力的だった。アメリカニズム、グローバリズム近代主義への批判は従来から西部の思想の中心を占めていたが、アメリカ同時多発テロ事件以降の日本の親米知識人たちのアメリカ追従姿勢に対する批判は西尾や田久保忠衛らとの対立を招く。

2002年、小林よしのりとともに「つくる会」を脱退。以後「産経新聞」、「正論」、「諸君!」などを中心とする日本の親米保守の知識人たちと一線を画し彼らを批判。アメリカのイラク侵攻に大義はないと主張し彼らと対立した。また女系天皇を容認する皇室典範改正を是としたことから「左に回帰した」との批判を受ける。だが、現在も日本の核武装徴兵制の導入、防衛費の倍増、尖閣諸島の実効支配強化などを主張している。

[編集] 思想

西部は『発言者』塾の心得十箇条として、以下のように自らの思想の方向を要約している。

  1. 人間を「言葉の動物」と理解する。
  2. 言葉の産物としての個人および集団における意味的現象を総合的に解釈する。
  3. 意味的解釈という矛盾をはらんだ作業において平衡をとる。
  4. 人工言語に傾くものとしての概念理論自然言語に傾くものとしての思想・実践とを両立させる。
  5. 人生経験、認識活動および政治行動の融合をはかる。
  6. 言葉の基礎としての歴史の英知を保守する。
  7. 戦後日本を歴史破壊的時代として懐疑する。
  8. 異世代および異国人にたいする接近と離反において中庸を守る。
  9. 大衆教育(大学)と大衆伝達(マスコミ)が、言葉・解釈・経験・実践・歴史の一切を平板化させていることにたいして、批判を差し向ける。
  10. 哲学(真)、宗教(善)、および芸術(美)への関心を絶やさないことによって、虚無主義にたいする防波堤を築く。

[編集] 受賞

[編集] 雑誌の刊行

[編集] テレビ出演

[編集] エピソード

好き 嫌い
人物 自分 自分
言葉 保守 革新
食べ物 うどん 幕の内弁当
学問 ある種の哲学 あらゆる種類の経済学
芸術 ある種の絵画 最近の文学
スポーツ なし なし
動物 人間と言いたいところだが、なし
宗教 すべての旧宗教と言いたいところだが、なし すべての新興宗教と言いたいところだが、なし
国(人種) まずイタリア、次にイギリスと言いたいが、やはり日本 まずアメリカ、次に韓国と言いたいが、やはり日本

つい先だって、船橋の市立図書館で、私の書物が一冊を除いてすべてひそかに廃棄されるという扱いを受けたが、次の焚書(ふんしょ)に当たっては、本書(『知性の構造』ハルキ文庫版)がその一冊の例外になるという名誉にあずかれればと切望する。坑儒されてみたいくらいに思っている私がなぜこんなことをいうのか。それは、本書がどこかに残っていれば、その作成に携わってくれた皆様に――単行本を物にしてくれた小山晃一氏を含めて――ささやかな返礼ができると思うからである。

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西部邁『知性の構造』ハルキ文庫、2002年、270頁。 {{#if:|, {{{3}}}}}{{#if:|, {{{4}}}}}

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私の念じるのは、評論家として、次のように思いつつそして死ぬことだけである。

つまり、この人の世にあるのは言葉だけであり、自分という極微の存在は、過去のあまりにも巨大な言葉の集積のうちほんの局所を受け継ぎ、そしてそれにごく僅少の加工をほどこして、とともに、それを何処の誰とも知れぬ人に手渡す(素振をする)、私の生死の意味はそのことに尽きると思っている。

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『寓喩としての人生』徳間書店、238頁。 {{#if:|, {{{3}}}}}{{#if:|, {{{4}}}}}

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[編集] 脚注

  1. 『妻と僕』(飛鳥新社)の巻末に西部の詳細な経歴が掲載されている。
  2. 西部邁『六〇年安保 センチメンタル・ジャーニー』文芸春秋、1986年、36-37頁。
  3. 西部邁、栗本慎一郎『立ち腐れる日本』光文社、1991年、225頁。
  4. 西部邁「レストランの地主となって」『文藝春秋』平成14年6月号
  5. 『思想史の相貌』(徳間文庫)などを参照。

[編集] 関連項目

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[編集] 門下生

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[編集] 雑誌

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[編集] その他

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[編集] 外部リンク

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